事件屋稼業

気持ちに素直に日々を書いていきます

全英フェデラー優勝〜WOWOW放送の残酷さ

フェデラーの全英8度目の優勝は、フェデラーファンの多い日本ではとても感動的なことだったと思います。


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170717-00000044-spnannex-spo


一方で、チリッチが2ndセット途中で流した涙は、スポーツを少しでも真剣に取り組んだことのある人にとっては想像のつく、おそらくはニュースを読まずとも実況を見ている時に感じたことだったと思います。


"チリッチ、突然の涙の訳は「こんなに不運に見舞われるなんて」"

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170717-00000001-spnannex-spo


僕が一番悲しかったのは、その後明らかに足元のおぼつかないチリッチの不調には全く触れず、フェデラーの素晴らしさのみを称え続ける解説者のコメント。


これは、気づかなかったのでなく、フェデラーウィンブルドン優勝という一大イベントを損なわないようにしよう、という意図が強く見えるものだった。最初のうちは足の不調に触れようとしていたアナウンサーも、調子を合わせて一切触れなくなったことからも。


罪の無いことなのかもしれないけど、僕はこの手のエンターテインメントの残酷さが許せない。スポーツは、こんな風に選手に対する敬意を失った扱いを許容すべきでないと思う。


…と、試合中から憤慨して入り込めず仕舞いでした。あー残念。

人間は金のために動いてはいない〜社会の幻想

「結局金だろ?」という人に対して、人間は金のために動いてはいないということを説明することはとても難しい。


最終的にお金がなくてはいけないし、別の大義のために動いていた人間が、最終的にお金にまつわる欲に駆られた(ように見える)事件を起こすといったこともありえる。


それでも、やはり人間はお金で動いてはいない。


お金で動いているように見える人も、社会的定義の中でお金によって象徴される何かを追い求めて動いているのだ、と思う。


その欲求が別のものによって満たされれば、お金は本来の、物々交換を効率化するためのツールの役割に再び収斂される。


社会的共同幻想に支配される世界の中で、個々人の本当の欲求を見極めることは、他人にとってはもちろん、自分自身にとってさえ、とても難しいことだと思う。

J2千葉ー徳島戦での「少年」への水かけ事件における人の価値観について

サッカーJ2の千葉ー徳島戦でのこの事件について、またもや誰にとっても酷い騒ぎになっています。

headlines.yahoo.co.jp

起きたと思われること(思われていること)を整理すると、以下の通りのようてです。

①ボールボーイがボールをすぐに返さなかった

②徳島の馬渡選手が怒り、ボールをぶつけた後に肩を"こづいて"退場に

③そのボールボーイが「少年」であり、その「少年」に対して、徳島サポータが罵声を浴びせて水をかけたこと

 

①に関しては、「ゲーム運営側が特定チームに肩入れしていいのか?」という議論もありますが、「ホームに有利なゲーム運営など欧米では当たり前」 といった意見もあります。

②・③に関しては、少年の心を傷つけたことへの批判が大きいようです。

 

それに対して思うところです。

①ボールボーイが敢えてボールを返すのを遅らせたとしたら、それはこのゲームに参加している一人のメンバーと思うべきでないか?(サポーターは12人目の選手、というのと同じ)

→「少年」であろうと、プレイヤー・サポーターと対等といえると思う。

(以下の事件とは違いますよね)

WBCでの少年捕球事件が提起する問題は「ネット叩き」や「観戦モラル」以上に「ビデオ判定の権威」(豊浦彰太郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

②徳島の馬渡選手はそれに怒ってボールを当ててこづいたことは、退場に価する。

→「少年」であろうとなかろうと、ルール上そうなってると思う。でも、ビデオ見る限り、サッカーやってる人にとっては割と普通な行動。

 

③サポーターが水をかけたことについて、サポーターがチーム選手や審判など対して過激な行動をするというのは、何だか欧米から持ち込まれた文化のようになっていて、ここだけをとって批判するのは筋違いというものに思える。

→もしこれを非難する人は、運営がホームチームに有利な動きをするということも強く非難すべきで、結局これはボールボーイが「少年」であるが故の騒ぎなのだと思う。

 

強く思うことは、ここに登場するすべての人間に大した「悪意」というものはないということ。これは、「馬渡選手」も「水をかけたサポータ」も「少年」も同じに思えています。

プロサッカーという 共通の価値世界の中では、起きていることのすべてがある種の「お約束」的な話であって、本来、当事者達にとっては大した事案ではないように思う。

それが外側の価値から見られた瞬間に、それぞれの行動がパッシングの対象になって、必要以上にそれぞれを傷つけてしまう。

これは、キリスト教の価値観でイスラム教社会の出来事を判断しているようなものかもしれない。

 

わたくしとしては、ホームチームはゲームの運営に不公平があってもいい、とか、フーリガン的な行動を(実は)許容する文化を、コアなファンが誇らしげに肯定しているスポーツって、それってどないやねん、と思います。ただ、これもあくまでも個人の価値観です。

森友学園問題〜政治家のレベルは構造的な問題で低下する

何かしら政治絡みの事件・不祥事の報道がされる時、しばらくすると「政争の具」という言葉で、問題の解決でなく、選挙を睨んだPR戦でないか、という論点が登場します。森友学園問題も、その一例。
 
森友学園問題については、なんだか保守陣営の差し合いみたいなやり取りによって、一層元々何が問題だったのかがわかりづらく、薄まってきている感じがします。これも、ある種の「政治劇場」ですね。(籠池氏は安倍政権擁護のために動いているように普通に見えます)
 
前者の「政争の具」については、結局のところ野党はなんとかして与党の問題点にFocuaして国民にアピールしようとしていることは間違いないし、与党はそれを明らかにしようと同じく国民にアピールしているわけなので、結果としては、与党・野党が一致団結して問題を「政争の具」にすべく押しやっているということになる。
 
いずれにせよ、見え透いていることを恥ずかしくもなくやるものだな、と思うわけですが、米国大統領選挙の結果なども見るにつけ、少なくとも米国では通用しているのでしょう。日本でもこういった試みが成功しているのかどうかは微妙なところとはいえ、感覚的には8割くらいの人は、特に疑問に思わずやり取りを真に受けてしまっている気がします。(国民を馬鹿にしているという点では与党・野党を問わず共通で、しかもそれはあながち間違いではない)
 
政治家に限らず、僕らが生きている日常生活においても、自分を天才と思っていたり、周囲のレベルを下に見ている人間は、自分のまやかしが相手には通じていると思い込んで、誰に対してもつまらないごまかしや嘘をついてしまったりするのをよく見かけます。実際にそれが通用している場合もあるのでしょうが、長期的には長持ちしないし、本当にそのような人が認められていると思っている人からは、軽蔑しか得られないことになる気がします。
 
同じく、政治家という職業が短期的に国民の支持を得ようと動く以上、2割程度の人には常に軽蔑の対象となるし、そういった2割の人は政治家になろうと思わない、という悪循環が生まれていくように思えます。
 
そう考えると、民主主義における政治のレベルは、その政体が誕生した時から構造的に低下していくものである、といえるかもしれません。歴史は民主的な政体と寡占的な政体を行き来しているわけで、世界各国で独裁主義者的な権力者が生まれているのは、歴史を眺めてみた時にも必然であるのかもしれません。日本における議会制民主主義も、そんなに長い歴史があるものではなく、絶対のものではないということを忘れてはいけません。
 
以上のことから間を省いて感想を述べますと、現状の日本では政治のレベルを上げるのは難しいでしょうし、かといって今の世の中で軍部や一党独裁のスキームに移行することも現実的でないでしょうから、我々の生活を良くするためには、政治に最小限しか頼らない社会構造を作り上げていく必要があるのだろう、と思うしだいです。

M1グランプリ〜上沼恵美子の審査が酷い件

カミナリへの80点からの相席スタートへ90点。カミナリの時に失敗したと思って、人と逆にすることにしたのかな、と思いました。

なんというか、感情の揺れ動きで行動を誤るというのは日常でもよくある話なので、僕としてはかわいそうだなと思います。生放送は怖い。穏やかに収まるといいのですが。。。

welq問題に関する守安社長インタビューに思うこと

DeNA社のwelqの医療問題について、サイトの一時閉鎖が発表され、techcrunchには守安社長のインタビューが掲載されました。

jp.techcrunch.com

危機管理の点で良くできたインタビューだとは思いますし、「結果責任において良いか悪いかは別において、分かる範囲で、誠実かつ正直に回答されている印象」(LINE執行役員田端氏)といったコメントを始めとして、擁護する意見も業界の方を中心に出てきたのですから、成功なのでしょう。(田端氏のコメントが“擁護”なのかはなんとも言えないところですが)

ただ、本質的には、経営者として関知していたかとか、管理不足を認めたから偉いという話ではなく、企業体質の問題なので、誰よりも(村田マリ女史よりも)責任を負うべきなのは守安氏をはじめとした経営陣であると思うのです。「儲かればなんでもいい」というように見える創業以来の姿勢は、メンバーをそのような活動に走らせるし、このような企業の買収という判断にも至らせてしまいます。コトの処理に南場さんを…という論調も一部にはありますが、過去を振り返る限り、その点では何の変わりもないでしょう。(むしろ顕著でしょう。経営者としての明晰さと理念とは、この場合リンクしていないようです)

一月前に記事(MERYとwelq〜キュレーションサイト運営会社の企業理念を読んでみたこと - 事件屋稼業)を書いた折にはここまでの炎上になるとは思っていなかったのですが、本当に信じている企業理念のない会社は、割と早くに没落するのだ、ということだと思います。全ての経営者の方々、投資家の皆様は、十分に考えられた方が良いでしょう。

成長戦略に悩むDeNAではありますが、この事件で衰退の一途を辿る、ということはないと思われます。ただ、本当の価値を生み出すことを目的にしていない以上、淘汰の憂き目に合うのは時間の問題かもしれません。価値を生まない生物に、世界は厳しいものです。

「田舎のプロレス」への謝罪について

「田舎のプロレス」発言、萩生田副長官が撤回し謝罪

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161124-00000059-asahi-pol


僕は自民党支持者でもなんでもないですが、この発言に関する謝罪対象がみちのくプロレスであるならまだしも、国会審議への侮辱という点であるというのであれば、なんだかなぁと思いますね。

誰の目から見ても、採決に対する妨害が(諦めを伴った)形だけの抵抗ポーズにしか見えない以上、この表現は的を得た表現だと思えるのですが。

この謝罪を引き出すことに何の意味があるのか、野党陣営は冷静に分析すべきですね。