事件屋稼業

気持ちに素直に日々を書いていきます

森友学園問題〜政治家のレベルは構造的な問題で低下する

何かしら政治絡みの事件・不祥事の報道がされる時、しばらくすると「政争の具」という言葉で、問題の解決でなく、選挙を睨んだPR戦でないか、という論点が登場します。森友学園問題も、その一例。
 
森友学園問題については、なんだか保守陣営の差し合いみたいなやり取りによって、一層元々何が問題だったのかがわかりづらく、薄まってきている感じがします。これも、ある種の「政治劇場」ですね。(籠池氏は安倍政権擁護のために動いているように普通に見えます)
 
前者の「政争の具」については、結局のところ野党はなんとかして与党の問題点にFocuaして国民にアピールしようとしていることは間違いないし、与党はそれを明らかにしようと同じく国民にアピールしているわけなので、結果としては、与党・野党が一致団結して問題を「政争の具」にすべく押しやっているということになる。
 
いずれにせよ、見え透いていることを恥ずかしくもなくやるものだな、と思うわけですが、米国大統領選挙の結果なども見るにつけ、少なくとも米国では通用しているのでしょう。日本でもこういった試みが成功しているのかどうかは微妙なところとはいえ、感覚的には8割くらいの人は、特に疑問に思わずやり取りを真に受けてしまっている気がします。(国民を馬鹿にしているという点では与党・野党を問わず共通で、しかもそれはあながち間違いではない)
 
政治家に限らず、僕らが生きている日常生活においても、自分を天才と思っていたり、周囲のレベルを下に見ている人間は、自分のまやかしが相手には通じていると思い込んで、誰に対してもつまらないごまかしや嘘をついてしまったりするのをよく見かけます。実際にそれが通用している場合もあるのでしょうが、長期的には長持ちしないし、本当にそのような人が認められていると思っている人からは、軽蔑しか得られないことになる気がします。
 
同じく、政治家という職業が短期的に国民の支持を得ようと動く以上、2割程度の人には常に軽蔑の対象となるし、そういった2割の人は政治家になろうと思わない、という悪循環が生まれていくように思えます。
 
そう考えると、民主主義における政治のレベルは、その政体が誕生した時から構造的に低下していくものである、といえるかもしれません。歴史は民主的な政体と寡占的な政体を行き来しているわけで、世界各国で独裁主義者的な権力者が生まれているのは、歴史を眺めてみた時にも必然であるのかもしれません。日本における議会制民主主義も、そんなに長い歴史があるものではなく、絶対のものではないということを忘れてはいけません。
 
以上のことから間を省いて感想を述べますと、現状の日本では政治のレベルを上げるのは難しいでしょうし、かといって今の世の中で軍部や一党独裁のスキームに移行することも現実的でないでしょうから、我々の生活を良くするためには、政治に最小限しか頼らない社会構造を作り上げていく必要があるのだろう、と思うしだいです。